■レポート【日本史1】合否比較あり(評価D→B)




大化の改新に関する課題です。入学後早い段階で書いたものです。本レポートは一度目は評価Dで不合格だったため再提出をして合格となったものです。評価Dのレポートをどう修正をしたのかがわかるように評価Bのレポートと比較した表を掲載しています。

どんな科目?(本科目について簡単にご紹介)


日本の歴史について学ぶ科目。本課題で扱われている大化の改新については、研究が進むにつれて昔とは違った解釈がなされている部分も出てきています。


課題情報(課題の概略や成績など)

1

科目

歴史(日本史)

2

課題概略

大化の改新に関するもの

3

課題タイプ

まとめなさい

4

提出形式

手書き(ワープロ不可)

5

評価

1回目 D

2回目 B

6

レポート構成

課題定義と流れ提示

説明1(改新の要因)

説明2(改新の詔の発布)

説明3(詔以外の資料)

まとめ

参考文献

課題定義と流れ提示

説明1(改新の要因)

説明2(改新の詔の発布)

説明3(詔以外の資料)

まとめ

参考文献

7

文字数制限

2000

8

本文文字数

1回目 1840字

2回目 1906字

9

備考

・重要な視点が抜けている旨のご指摘を受けて再提出となったものです。

・初回提出と再提出では、全体構成は同じですが、取り上げている内容がやや異なっています(特に説明3)

・初回は改新の要因について淡々と述べ続けるスタイルですが、再提出分は項目を分けて記載(下記表で赤字にて強調)しています。



分析(文章をまとまり毎に表形式で整理)


    評価Dのレポート
   評価Bのレポート
1
課題定義と流れ提示
大化の改新とは、645年に当時の豪族であった蘇我蝦夷・入鹿父子を、中大兄皇子と中臣鎌足が武力で排除した乙巳の変から始まる政変のことをいう。

この政変はそれまで豪族がそれぞれ私地・私民を支配して世襲していた朝廷の政治を、唐にならった律令法を用いた中央集権的政治体制に変えたとされている。

政変はなぜ起こったのだろうか。

「大化の改新」は7世紀半ばに起こった政治改革であり、大王中心の中央集権的な支配体制を持つ律令国家の確立を目的としていたとされている。

 改革の要因については、大きなものとして3つのことが挙げられる。

2
説明1(改新の要因)

蘇我氏は聖徳太子として知られる厩戸皇子とともに推古朝政治を支えた豪族である。

蘇我入鹿は皇子とともに百済の仏教や建築方法といった外国の最新技術を取り入れた国づくりをすすめ、当時の日本では国際派といえた。

厩戸皇子死去以降、更に国内で勢力を伸ばす一方で、外交においても東アジアの情勢不安を見据えてそれまでの百済中心から新羅、高句麗も含めた朝鮮半島の国々との等距離を保った外交に変えていった。

入鹿は推古大王の数代後に大王となっていた皇極大王の後に父蘇我馬子の血筋である古人大兄皇子を即位させようと次の有力な王位継承候補者であった山背大兄王を倒した。

こうした状況を蘇我氏が国の権力を手中にして王家を傾けようとしていると危機感を持ちその阻止をしようとしたことが政変の原因であり、行動の中心人物が中臣鎌足と中大兄皇子である。

中臣鎌足は古くから神官として祭祀を司ってきた家系の豪族である。

蘇我氏打倒の協力者に次代を担う王位継承者を選び、最初に軽皇子に接近したが、器が足りないと判断したため次に中大兄皇子に接近し協力を得た。

計画は入鹿の暗殺として実行され、それを知った蝦夷の自殺により蘇我本家は滅んだ。

その後、皇極大王の退位により軽皇子が孝徳大王として即位し、中大兄皇子は皇太子として実権を握った。鎌足は皇太子の腹心として内臣となった。

新政権は難波長柄豊崎に遷都しそこで改新の詔を宣した。外交面については百済中心に戻ってしまった。
1つめは、当時の豪族蘇我本宗家の専横ぶりに対する危機感である。

大臣という立場でありながら、蘇我蝦夷と入鹿の親子は国政の実権を握り、大王のようなふるまいをしていた。

例えば、彼らが644年に建てた自分たちの為の邸宅は「上の宮門」、「谷の宮門」といい、子供たちを王子と呼んだ。

「みかど」も「みこ」も本来王家が使うことばであり、その専横ぶりの一端がうかがえる。

2つめは6世紀に成立した伴造-トモ・部制の行き詰まりである。

ウジごとの縦割りであったこの体制は、国造制を枠組みとしてトモ・部が伴造を主君と仰ぐような状態を生み、それは氏族それぞれの私的私益の追求や排他的な同族意識、中間搾取などの温床となり、君臣関係が多元化してしまっていた。

3つめは当時の国際情勢である。

618年に成立した唐に対し、624年には朝鮮半島の高句麗、新羅、百済の三国が冊封をうけた。

抗争が激した三国のなかで唐は新羅を保護する方針をとっている。三国それぞれにおいて642年ごろから政変が起こり、三者三様の権力集中が行われた。

百済では義慈王が新羅を攻撃して勝利し、高句麗と手を結ぶとともに国王の独裁体制をしいた。

高句麗では泉蓋蘇文がクーデターを起こし、新しい王のもとで莫離史という地位で実権を握った。

同じころ、新羅では善徳女王中心に政治を行っていた。

642年に百済に惨敗し、高句麗の攻撃をうけて苦境に立たされ、唐の太宗に救援を求めた。

太宗は高句麗を告諭するが受け入れられなかったため、高句麗の征討のために大軍を率いて何度か出兵したが征討には至らなかった。

こういった状況の中、このまま蘇我氏独裁の国内政治体制では朝鮮半島の緊迫した情勢に対応できないと危機感をもった者達が起こしたのが、「大化の改新」の始まりと位置づけられる「乙巳のクーデター」である。

これは645年に豪族の一人であった中臣鎌足が王族の一人の中大兄皇子に協力を仰いで蘇我入鹿を暗殺した事件である。

入鹿の暗殺を知った蝦夷は自害したため蘇我本宗家は滅び、蘇我氏の独裁体制は終わった。
3
説明2(改新の詔の発布)
近年まで、大王が即位後に宣した改新の詔により律令国家が確立したとされていた。

律令国家の「律」は現在の刑法、「令」は民法・税法・商法などにあたるもので、こうした法律のもとに政治が行われた国家のことをいう。

詔は四か条からなり、私地私民、地方行政制度、戸籍・計帳・班田収受、新税制について定められたものであったとされている。

しかし、最近の研究から詔の内容については後代に改作されたのではないかという見解が主流となっており、実際に詔の内容に添った律令制度が確立したのは689年に天武・持統天皇によって編纂された飛鳥浄御原令が施行されてからではないかとされている。
クーデター後、中大兄皇子は軽皇子を孝徳大王として擁立し、自らは皇太子として、内臣となった中臣鎌足とともに実権を握った。

翌年646年には遷都した難波長柄豊碕にて「改新の詔」が発布された。

「書紀」に書かれている詔は4条からなり、私地・私民の廃止、地方行政制度、戸籍・計帳・班田収受の法、新しい税制の制定が記されている。

しかし、この詔の中に、改新の時期には「評」として使われていたはずの「郡」という文字が入っていたことから、実際に発布された詔を後年に改ざんしたという説が有力になっている。

改ざん前の原詔についてはいまだ内容は確認されていない。
4
説明3(詔以外の資料)
つまり近年まで改新の詔により一挙に成立したと考えられていた律令国家は実際には乙巳の変の後長い時間をかけて成立したということになる。

従来のように、大化の改新が律令国家成立をさせたと位置づけるのならば、近年の研究を考慮すれば、乙巳の変から飛鳥浄御原令施行までの長い期間を大化の改新の中に含めることとなる。

では飛鳥浄御原令が施行されるまではどのような経緯があるのだろうか。
孝徳大王の時代に入り新羅と唐に百済が滅ぼされると百済復興を助けるべく663年に朝鮮半島の白村江に軍を送り出したが大敗し、朝鮮半島との外交もここでいったん終止符が打たれた。

外交が再開するのは数年後に新羅使が外交を求めてきてからのことである。

白村江の戦いでの大敗は国に深刻な影響を与えた。危機感を覚えた中大兄皇子は667年に都を大津宮に遷し天智大王として即位して豪族の身分的編成・全国の戸籍作成など政治体制の整備を急いだ。
  
天智大王が亡くなり、後継者の座をめぐって672年に起こった争いが「壬申の乱」である。

戦は天智大王の子大友皇子と、大王の弟の大海人皇子との間で繰り広げられたが、大海人皇子が勝利し天武天皇として即位した。

天武天皇は都を飛鳥浄御原宮に遷し、のちの大宝律令の基本であると同時に日本最古の法律である飛鳥浄御原令の編纂を命じた。
この法律ではそれまでの「大王」を「天皇」と改め、天皇を身分秩序の頂点とした官僚制的体制を形作った。

この法律が実際に施行されたのは天武天皇が亡くなり、次に即位した持統天皇の世になってからである。 

実際の改革内容については、原詔以外では「風土記」などの資料や「書紀」の詔以外の記事、また難波宮跡の遺跡などを手がかりとしていくつかのことがわかる。

新政権はクーデター直後に諸国に使者を派遣して国造の支配領内でいくつかの施策を実施している。

まず、領域内の戸口総数と田地面積の把握である。また、評という新しい地方行政組織をおくため、その希望者の系譜調査を行っている。

さらに国造領内の武器を現地に留めたまま国の管理下においた。646年に「皇太子奏請文」により部廃止策が定まり、翌年「品部廃止の詔」によって「品部」の全面廃止が宣言され、ウジを部の所有から切り離し官僚化が試みられたが、旧来の制度廃止が徹底されず実現しきれなかった。

しかし、すべての民は大王に属する「公民」であるという認識は根付き、支配の一元化の基礎ができた。

また、地方では部を廃止し、評を設置して国造支配の解体をすすめた。

 詔を発布した難波長柄豊碕は朝鮮半島との交流の窓口ともいえる港を持っていた。
遷都したのは国際情勢に迅速に対応するためである。この場所には二時期の宮殿跡が重なっている。

前期難波宮と名づけられた巨大なものが改新時期のものであるかが議論されていたが、近年になって年代を記した木簡が出土したことにより、この宮が「大化の改新」の実在を裏付けるものという説が有力となった。

宮の巨大さは、多元的であった君臣関係を大王中心の一元化をするにあたり、大王の権威を高めるためであったといわれている。
5
まとめ
近年の研究において律令国家が成立したのは乙巳の変の後いつなのかという点についていまだ論争はある。

しかし、蘇我氏は半世紀以上にわたり国を動かしてきた豪族であり、その豪族が倒され国の指導者が変わったことがきっかけでのちに全く新しい政治体制が生まれていった大化の改新という政変が日本の歴史のひとつの大きな転換期にあたることは間違いない。
以上のことから、「大化の改新」とは「書紀」に記される詔の内容を行ったのではなく、のちに詔内容を実施し律令国家を実現するための基礎作りの改革であったと考えている。

6
参考文献

<参考文献>
・森公章・編「日本の時代史3」吉川弘文館 2002
・NHK取材班・編「その時歴史が動いた③」KTC中央出版 2000
・遠山美都男 著 「大化の改新」中公新書 1993


<参考文献>
・熊谷公男 著「日本の歴史3」講談社
2001
・森公章 編「日本の時代史3」吉川公文館 2002
NHK取材班 編「その時歴史が動いた③」 KTC中央出版 2000
・遠山美都男 著「大化の改新」中公新書1993



 

文章のみ(レポートをそのまま文章のみ掲載。ざっと読みたいという方に)※評価Bのみ




 「大化の改新」は7世紀半ばに起こった政治改革であり、大王中心の中央集権的な支配体制を持つ律令国家の確立を目的としていたとされている。
 改革の要因については、大きなものとして3つのことが挙げられる。

 1つめは、当時の豪族蘇我本宗家の専横ぶりに対する危機感である。大臣という立場でありながら、蘇我蝦夷と入鹿の親子は国政の実権を握り、大王のようなふるまいをしていた。例えば、彼らが644年に建てた自分たちの為の邸宅は「上の宮門」、「谷の宮門」といい、子供たちを王子と呼んだ。「みかど」も「みこ」も本来王家が使うことばであり、その専横ぶりの一端がうかがえる。

2つめは、6世紀に成立した伴造-トモ・部制の行き詰まりである。ウジごとの縦割りであったこの体制は、国造制を枠組みとしてトモ・部が伴造を主君と仰ぐような状態を生み、それは氏族それぞれの私的私益の追求や排他的な同族意識、中間搾取などの温床となり、君臣関係が多元化してしまっていた。

3つめは当時の国際情勢である。618年に成立した唐に対し、624年には朝鮮半島の高句麗、新羅、百済の三国が冊封をうけた。抗争が激した三国のなかで唐は新羅を保護する方針をとっている。三国それぞれにおいて642年ごろから政変が起こり、三者三様の権力集中が行われた。百済では義慈王が新羅を攻撃して勝利し、高句麗と手を結ぶとともに国王の独裁体制をしいた。高句麗では泉蓋蘇文がクーデターを起こし、新しい王のもとで莫離史という地位で実権を握った。同じころ、新羅では善徳女王中心に政治を行っていた。642年に百済に惨敗し、高句麗の攻撃をうけて苦境に立たされ、唐の太宗に救援を求めた。太宗は高句麗を告諭するが受け入れられなかったため、高句麗の征討のために大軍を率いて何度か出兵したが征討には至らなかった。
 
 こういった状況の中、このまま蘇我氏独裁の国内政治体制では朝鮮半島の緊迫した情勢に対応できないと危機感をもった者達が起こしたのが、「大化の改新」の始まりと位置づけられる「乙巳のクーデター」である。これは645年に豪族の一人であった中臣鎌足が王族の一人の中大兄皇子に協力を仰いで蘇我入鹿を暗殺した事件である。入鹿の暗殺を知った蝦夷は自害したため蘇我本宗家は滅び、蘇我氏の独裁体制は終わった。

クーデター後、中大兄皇子は軽皇子を孝徳大王として擁立し、自らは皇太子として、内臣となった中臣鎌足とともに実権を握った。

翌年646年には遷都した難波長柄豊碕にて「改新の詔」が発布された。「書紀」に書かれている詔は4条からなり、私地・私民の廃止、地方行政制度、戸籍・計帳・班田収受の法、新しい税制の制定が記されている。

しかし、この詔の中に、改新の時期には「評」として使われていたはずの「郡」という文字が入っていたことから、実際に発布された詔を後年に改ざんしたという説が有力になっている。改ざん前の原詔についてはいまだ内容は確認されていない。

実際の改革内容については、原詔以外では「風土記」などの資料や「書紀」の詔以外の記事、また難波宮跡の遺跡などを手がかりとしていくつかのことがわかる。
新政権はクーデター直後に諸国に使者を派遣して国造の支配領内でいくつかの施策を実施している。まず、領域内の戸口総数と田地面積の把握である。また、評という新しい地方行政組織をおくため、その希望者の系譜調査を行っている。さらに国造領内の武器を現地に留めたまま国の管理下においた。646年に「皇太子奏請文」により部廃止策が定まり、翌年「品部廃止の詔」によって「品部」の全面廃止が宣言され、ウジを部の所有から切り離し官僚化が試みられたが、旧来の制度廃止が徹底されず実現しきれなかった。しかし、すべての民は大王に属する「公民」であるという認識は根付き、支配の一元化の基礎ができた。また、地方では部を廃止し、評を設置して国造支配の解体をすすめた。
 
詔を発布した難波長柄豊碕は朝鮮半島との交流の窓口ともいえる港を持っていた。遷都したのは国際情勢に迅速に対応するためである。この場所には二時期の宮殿跡が重なっている。前期難波宮と名づけられた巨大なものが改新時期のものであるかが議論されていたが、近年になって年代を記した木簡が出土したことにより、この宮が「大化の改新」の実在を裏付けるものという説が有力となった。宮の巨大さは、多元的であった君臣関係を大王中心の一元化をするにあたり、大王の権威を高めるためであったといわれている。

以上のことから、「大化の改新」とは「書紀」に記される詔の内容を行ったのではなく、のちに詔内容を実施し律令国家を実現するための基礎作りの改革であったと考えている。

<参考文献>
・熊谷公男 著「日本の歴史3」講談社
2001
・森公章 編「日本の時代史3」吉川公文館
 2002
NHK取材班 編「その時歴史が動いた③」
 KTC中央出版 2000
・遠山美都男 著「大化の改新」中公新書
1993