■レポート記載例【日本史2】評価D→B 全文記載編


総合科目の中から、2回目で合格した科目のレポートをご紹介します。
合否レポート両方を全文掲載します。レポートの再提出はどんな感じなのか一例としてご参考になれば幸いです。
なお、これは「手書きで提出」の指示があったレポートです。下書きについてはWordで行い、印刷したものを見ながら既定の用紙に書き写しました。初回、再提出ともにそれぞれ全6枚の記載で提出しています。
本文中の改行については、Web掲載に際し読みやすいように適宜行っています。実際の提出時とは異なっている部分もありますのでご留意ください。

※追記:本記事含むこの科目の一連のレポート公開初期に記載したもので、以降公開したレポート記事とはスタイルがかなり異なっていますのでご了承ください。


課題概略

【科目】  日本史

【課題概略】近世農民に関する出題。論じるよう指示あり。

【作成要領】「論じる」という指示があったことから、

       ①課題に沿った内容で自分なりに問題(疑問)提起
       ②その問題について調べたことを記載
       ③自分なりの問題に対する解答(意見)を書く

      といった感じの流れで全体を書きました。
      改めていま見てみると、初回のレポートに関しては、③に該当する部分が
      あまり「自分なりの解答(意見)」になっていない印象を感じます。
      

【参考文献】地元の図書館にあったもの

【提出形式】大学提出用レポート用紙 手書き(※ワープロ不可)     
      数字に関しては半角扱いで2数字を1マスに入れています。
       ※例 2002 と書く場合、「20」で1マス、「02」で1マスに
        記載するので合計2マスを使う。

 

【評価】 ●1回目 D 
    
     (主な指摘)一般論的なことが多く、課題キーワードに焦点が
           あたっていない。 

     ●2回目 B

     (主な指摘)内容に不足あり課題は残るが、良しとする。
           (※…指摘があるにもかかわらずの合格はラッキーでした。
              先生によっては再提出かもしれません。)

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提出レポート 1回目 評価(D)


日本近世史において庶民は支配者による強制的な制度を押し付けられ暴政と悪法に苦しみつつ暮らしていたとされてきた。とくに「士農工商」による身分制度に基づいた暮らしぶりが知られている。この制度では身分と職業とが一体なものとして扱われており、身分により居住地区から分けられていた。中でも農民として身分が確定したものは検地や年貢などで土地に縛られ苦しい生活を強いられていたとされるのがこれまで一般的に伝えられていた姿である。

しかし、これは本当に当時の農民たちの姿を伝えているといえるのだろうか。これまで近世の歴史を伝えるものとして使われてきた資料の多くは刀狩令や慶安御触書などといった幕府の側から見た資料から得た姿がほとんどである。一方向から見ただけでは本当の姿は見えていないのではないだろうか。

こうした疑問に対し「宗門改帳」や庶民の「日記」がこれまでとは違った、農民側から見た近世農民像を浮かび上がらせて注目されている。
宗門改帳とは17世紀に鎖国令が出されキリスト教が禁止されたことにより、幕府が日本住民一人ひとりに対し仏教徒である証明を提出させたものであり200年以上続いた。改帳は世帯ごとに構成する家族や奉公人についての名前や年齢などをはじめとした情報が記され、ほぼ毎年作られた。改帳が長期間に渡り残されていた一族があったことが当時の暮らしを知る手がかりとなった。旧美濃国安八郡西条村(現在の岐阜県安八郡輪之内町)で代々庄屋として住んでいた西松家に残されていた宗門改帳は1773年から1869年までの97年間にも及び研究対象とされている。

日記についてはあくまでも個人の記録であるものの、そこには書き手の目を通した日常が記されており当時の生活を知る貴重な情報といえる。分析がすすめられているのは宗門改帳と同じく西松家に残されていたものであり代々当主が記したものである。

いずれも資料自体は個人の家の中に関することであるがそこから当時の庶民の生活が垣間見える。資料から見る農民たちは農業にのみ従事していたものばかりではない。奉公という形で土地を離れるものも多く存在しており彼らは土地に縛り付けられていたわけではない。奉公先は京都や名古屋など村から遠く離れた大都市へ行くものと近距離の農村へ行くものとに大きく分かれている。また、奉公が縁での婚姻も数多く、なかには身分を越えた婚姻や養子縁組も見られることから、厳しいとされた士農工商の身分区分が実際のところはそうでもなかったのではないかという可能性が指摘されている。衣服や食物についてもある程度の豊かさがみられ貧困を極めていたという印象はない。教育についても村周辺に江戸時代末期に塾のようなものが存在していたことがわかっている。

これらの資料からはこれまで苦しいだけの生活だと思われていた農民たちがそれなりに人生を楽しんでいた様子がうかがえる。
では、これらの資料からわかる姿とこれまで言われていたように辛苦に耐えたとされる姿のどちらが本当の農民の姿なのだろうか。

 考慮しなければならないのは資料の特性である。これまで一般的な資料として使われていた資料は幕府の管理力が大きく及ぶ大都市を中心に記されているものである。一方、研究が進められている宗門改帳や日記はまだいずれもごく一部の田舎といえる地域のものにすぎない。当時、参勤交代のための岐阜から江戸への移動が10日ほどかかっていたことをみてもほかの流通についても現在の速度とはくらべものにならないほど遅いと思われる。距離が伝達力に関係するならば田舎であれば情報などの伝達力は更に落ちる。情報が届きにくければ遠方である幕府の支配は田舎地域の庶民には影が薄く、その地域の実力者による支配力のほうがはるかに強く感じていたのではないかと思われる。研究の対象になった西条村は大都市からは離れている。実力者である庄屋たちが住民たちから信頼を得て地域を取りまとめていたことがわかっており、地域実力者による支配がうかがえる。
宗門改帳や日記に記されていたように生活をある程度楽しめたのはこういった大都市から離れた田舎であり、大都市に近い地域になるに従い幕府の監視が強く及び、これまで認識されていた苦しい生活を営む農民像に近づいていったのではないだろうか。

つまり苦しい生活をしていた農民たちも確かに存在した一方で、それなりに人生を楽しんだものも多数いたのではないだろうか。幕府側、庶民側のどちらの資料もそれぞれ当時の農民の姿を正しく伝えているのではないか。言い換えれば、近世の農民生活は地域差が著しかったのではないかということである。

<参考文献>
  水融 著「江戸農民の暮らしと人生」麗澤大学出版協会 2002年
  成松佐恵子 著「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房2000
  田中圭一 著「百姓の時代」筑摩書房 2000


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提出レポート 2回目(再提出) 評価(B)

日本近世史において農民は「士農工商」の制度のもと、検地や年貢などで土地に縛られ暴政や悪法に苦しむ生活を強いられていたと一般的に伝えられている。

しかし、これは本当に当時の農民たちの姿を伝えているだろうか。これまでの近世歴史資料の多くは慶安御触書など幕府側のものである。一方向から見ただけでは本当の姿は見えていないのではないだろうか。

こうした疑問に対し「宗門改帳」や庶民の「日記」が、農民側から見た近世農民像を浮かび上がらせて注目されている。
「宗門改帳」とは、幕府が世帯ごとに家族や奉公人などの情報を記させたもので一時期ほぼ毎年作られた。「日記」には書き手の目を通した日常が記されており当時の生活を知る貴重な情報といえる。いずれも旧美濃国安八郡西条村で代々庄屋であった西松家のものが現在研究対象のひとつとされている。

これらの資料からはどのようなことがわかるのだろうか。
住居移動については特に婚姻や養子、出稼ぎ奉公などにより頻繁に行われている。婚姻については主に数キロ以内近隣間でのものと大都市へ嫁ぎ出るという形のものが見られる。身分を越えた婚姻や養子縁組も見られることから、厳しいとされた「士農工商」の身分区分が実際のところはそうでもなかったという可能性が指摘されている。出稼ぎについては小作層の二十代前後の男女が一年から数年といった短期で近隣の村や大きな都市へ行くことが多かった。

娯楽としては神社祭礼などの祭り、興行物として芝居、狂言など、日ごろの農作業を離れて、村内だけではなく他村の者や家族が連れ立って出かけ、酒を飲んだり余興を楽しんだりとにぎやかに過ごした。さらには禁止されるほど広まっていた博打なども娯楽の一部として挙げられる。
   村内の治安については、警備担当の番人を置いたりしたほか、細々とした揉め事や小さな窃盗事件などは役所へ届け出ず庄屋などの村内の実力者が処理を行っており農村の自治力の高さがうえかがえる。

また、教育についても関心は高く農村の子供たちは近隣の寺が寺子屋として開設していた塾のようなところで学習したり、農村内では教育レベルの高かった庄屋の家など手習いのために通ったりと積極的に学んでいた。大人の間では上層農民を中心に教養の一部としての生け花や俳諧なども広まっており、これらを通じた農村内外の人々の交流も盛んであった。中には遠方での会合などの参加のために宿泊を伴う旅行を兼ねて楽しんだものもいる。旅については街道整備や治安の向上などにより、参詣や湯治、物見遊山を目的としたものも多く行われていた。

このように、農民は土地に縛り付けられてはおらず、娯楽や教養などにもある程度の豊かさがみられる。衣服や食物についても貧困を極めていたという印象はなく、彼らがそれなりに人生を楽しんでいた様子がうかがえる。

では、一般に言われていたように辛苦に耐えたとされる姿のどちらが本当の農民の姿なのだろうか。

 これまで一般的な資料として使われていた資料は幕府の管理力が大きく及ぶ大都市を中心に記されているものである。一方、研究が進められている「宗門改帳」や「日記」はまだいずれもごく一部の田舎地域のものにすぎない。当時の移動手段が徒歩や馬などであり情報の伝達手段もそれらに頼っていたことから、その速度は現在とはくらべものにならないほど遅かったものと思われる。距離が伝達力に関係するならば田舎であれば情報などの伝達力は更に落ちる。情報が届きにくければ遠方である幕府の支配は田舎地域の庶民には影が薄く、その地域の実力者による支配力のほうがはるかに強く感じていたのではないだろうか。研究の対象になった西条村は大都市からは遠く、庄屋などの実力者が住民から信頼を得て村内を取り仕切っていたことがわかっており、地域実力者による支配がうかがえる。
「宗門改帳」や「日記」に記されていたように生活をある程度楽しめたのはこういった大都市から離れた田舎であり、大都市に近い地域になるに従い幕府の監視が強く及び、これまで認識されていた苦しい生活を営む農民像に近づいていったのではないだろうか。

つまり苦しい生活をしていた農民たちも確かに存在した一方で、それなりに人生を楽しんだものも多数いたのではないかということである。幕府側、庶民側のどちらの資料もそれぞれ当時の農民の姿を正しく伝えているのではないだろうか。
近世の農民生活は地域差が著しかったのではないかと考えている。

<参考文献>
  水融 著「江戸農民の暮らしと人生」麗澤大学出版協会 2002年
  成松佐恵子 著「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房2000
  田中圭一 著「百姓の時代」筑摩書房 2000