■レポート【日本外交史Ⅱ】合否比較あり(評価D→B)




日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開に関する課題です。再提出で合格したものです。合否レポートを比較していただけるように表形式で両方のレポートを掲載しています。

どんな科目?(本科目について簡単にご紹介)

明治1 (1868) 年以降の日本の外交の歴史が学習対象です。

課題情報(課題の概略や成績など)

1

科目

日本外交史Ⅱ

2

課題概略

日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開に関するもの

3

課題タイプ

概観しなさい(記載に際して着目すべき点の指示あり)

4

提出形式

ワープロ

5

評価

1回目 D

2回目 B

6

レポート構成

課題定義と流れ提示

説明と考察1(国交正常化前)

説明と考察2(国交正常化1・経緯)

説明と考察3(国交正常化2・条約)

まとめと全体考察

参考文献

課題定義と流れ提示

説明と考察1(国交正常化前)

説明と考察2(国交正常化1・経緯)

説明と考察3(国交正常化2・条約)

まとめと全体考察

参考文献

7

文字数制限

4000

8

本文文字数

1回目 3003

2回目  3992

9

備考

・国交正常化についての記載が不十分なレ旨のご指摘を受けて再提出となったものです。

 ・初回と再提出では、基本的な構成は同じで、文章も変更していない部分がありますが、再提出分では全体的に政権(首相)に焦点をあてた内容に変更しています。文字数もかなり増えています。




分析(文章をまとまり毎に表形式で整理)


    評価Dのレポート
   評価Bレポート
1
課題定義と流れ提示
序 章
日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる6年間は、1949年に成立した中華人民共和国と日本との友好関係を築く期間であったといえる。

中華人民共和国と日本との関係は当時の政治情勢に大きく影響を受けているが、中でも米国とソ連の動きには多大な影響を受けているといえる。

以下では、日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開を、特に日中両国と米国及びソ連との関係を考慮しながら概観したい。

序 章
日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる6年間は、1949年に成立した中華人民共和国と日本との友好関係を築く期間であったといえる。

中華人民共和国と日本との関係は当時の政治情勢に大きく影響を受けているが、中でも米国とソ連の動きには多大な影響を受けているといえる。

以下では、日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開を、特に日中両国と米国及びソ連との関係を考慮しながら概観したい。

2
説明と考察1(国交正常化前)
第1章 中華人民共和国の成立と日本

日中国交正常化以前には、なぜ日中間に国交がなかったのだろうか。

日中国交正常化でいう「中」とは、中華人民共和国のことを指している。

中華人民共和国は、1949年に成立した。それまで中国大陸を支配していた中華民国も台北に遷都はしたものの、依然政府として存在しており、中華人民共和国と中華民国の両政府ともに国際社会に対して中国を代表する政府であると主張した。

これに対して、米国は中華民国側を認めたのに対し、英国が中華人民共和国を認めたことで対立している。

このため、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本との間の戦争状態を終結させる平和条約を締結するために開かれたサンフランシスコ講和会議には、両政府とも招聘されなかった。

したがって、日本は中国との講和条約を締結できず、国交を回復することができなかった。

その後、米国は朝鮮戦争で悪化した中華人民共和国との関係から、日本に対して中華民国を国として認め国交を開くよう強いた。

これに従い日本は日華平和条約(1952)を結んだため、中華人民共和国政府は日本に対して敵意を示している。

第1章 中華人民共和国の成立と日本

日中国交正常化以前には、なぜ日中間に国交がなかったのだろうか。

日中国交正常化でいう「中」とは、中華人民共和国のことを指している。

中華人民共和国は、1949年に成立した。それまで中国大陸を支配していた中華民国も台北に遷都はしたものの、依然政府として存在しており、中華人民共和国と中華民国の両政府ともに国際社会に対して中国を代表する政府であると主張した。

これに対し、米国は中華民国側を認め、英国が中華人民共和国を認めたことで対立した。


この対立が原因で、第二次世界大戦における連合諸国と日本との間に平和条約を締結するために開かれたサンフランシスコ講和会議には、結局両政府とも招聘されなかった。

したがって、日本は中国との講和条約を締結できず、国交を回復することができなかったのである。

その後、米国は朝鮮戦争で悪化した中華人民共和国との関係から、日本に対して中華民国を国として認め国交を開くよう強いた。

日本はこの要請に従い日華平和条約(1952)を結んだため、中華人民共和国政府は日本に対して敵意を示している。

3
説明と考察2(国交正常化1・経緯)
第2章         日中国交正常化
日本に対して敵意を持っていた中華人民共和国との関係が国交正常化に至ったのは、どのような経緯からだろうか。

日中国交正常化とは、1972929日に田中角栄・周恩来両首相が署名した「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に基づき、日本と中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった出来事をいう。

この出来事は日中国交回復とも言われるが、そもそも1972年以前に中華人民共和国という国家と日本の間に外交関係はなかったことから、「国交回復」という表現は不適切であるとする見解もある。

中華人民共和国の日本に対する態度の最初の変化のきっかけとなったのは共産党の権力者であったソ連のスターリンの死に始まる国際共産主義運動の転換と朝鮮休戦協定の調印による国際的な緊張の緩和である。

これを機に日本との関係を改善方向へ転換し、日中両国民間で幅広く経済、文化等の交流を積み上げることにより日中関係を正常化へ導こうとする「積み上げ方式」を提案した。

日本側もこれに対して、貿易再開を望んだことにより経済関係については一度進展したものの、政治面において長崎国旗事件が引き金となり再び関係が断絶してしまった。

その後、日中貿易が再開されたものの関係は不安定で、佐藤内閣のときには、日本が米国や台湾、韓国との関係を深めたことから再度冷却化している。

このような経緯がありながら日本との国交正常化に至ったのは、1970年代に入って、中華人民共和国に対して敵対していた米国が、現役大統領の北京訪問という形でその関係改善に踏み切ったことが関係している。

日本にとっては、中華人民共和国への対応については米国とは密接な関係にあると自負していただけに、米中関係の改善は全く突然の出来事としてとらえられ衝撃を受けたとされる。

米中関係の影響を受けてのスタートではあったが、国交正常化については日中両国ともに進めたいということでは意見は一致していたため、交渉は前向きに開始された。しかし、ここで大きく問題となった事項があった。

まず、戦争の終結についである。日華平和条約で戦争は終結したとする日本と、それを認めないとする中華人民共和国で見解が一致しなかったのである。

これについては、両国の妥協により戦争終結という文言を使わず、不正常な状態を終了するという文言で明言を避けることで解決した。

また、日華平和条約を有効とする立場の日本に対し、中華人民共和国は自らの政府を中国唯一とし、日華平和条約の無効を主張したため問題となった。

これについては、日本が日華平和条約を一方的に終了させる宣言を行なうということで合意を得た。

このように、両国はお互いの利害関係を調整したことによって日中共同声明(1972)を完成させ、その調印をもって国交正常化に至ったといえる。

第2章         日中国交正常化
先述のように、日本に対して敵意を持っていた中華人民共和国との関係が国交正常化に至ったのは、どのような経緯からだろうか。

日中国交正常化とは、1972929日に田中角栄・周恩来両首相が署名した「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に基づき、日本と中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった出来事をいう。

最初の変化のきっかけとなったのは、1953年に共産党の権力者であったソ連のスターリンの死に始まる国際共産主義運動の転換と朝鮮休戦協定の調印による国際的な緊張の緩和である。

周恩来首相はこれを機に日本との関係を改善方向へ転換し、日中両国民間で幅広く経済、文化等の交流を積み上げることにより日中関係を正常化へ導こうとする「積み上げ方式」を提案した。

日本側も、鳩山一郎首相が、政治関係と経済関係は切り離し、両国間での経済・文化等の交流を深めるべきとして、この提案に応じたことにより、貿易が再開された。

これより経済関係については一度進展したものの、岸伸介首相の代に台湾寄りの姿勢を示して中華民国との関係を深めたことから、中華人民共和国との関係は悪化した。

このような状態の中で1957年に起きた長崎国旗事件は、岸内閣による中華人民共和国への挑発・侮辱であるとして政治問題となり、結果として再び中華人民共和国との関係断絶に至った。

その後、池田勇人首相の代になると、池田内閣が政治的争点を避けて経済発展に力を注ぐ方針を示した。

これに対し、中華人民共和国側もソ連・東欧との貿易減少のため他へ貿易相手を求める必要があったことや、岸内閣時代に行なった対日関係の処理に成果が少なかったことから対日態度が軟化し、1962年には「日中総合貿易に関する覚書」が調印され、日中貿易が再開された。

しかし、1964年に就任した佐藤栄作首相が、米国や台湾、韓国との関係を深めたため再度冷却化している。
このような経緯がありながら日本との国交正常化に至ったのは、1971年に中華人民共和国に対して敵対していた米国が、現役大統領の北京訪問という形でその関係改善に踏み切ったことが関係している。

佐藤内閣にとっては、中華人民共和国への対応については米国とは密接な関係にあると自負していただけに、米中関係の改善は全く突然の出来事としてとらえられ衝撃を受けたとされる。

この情勢変化に、日本は再び中華人民共和国との国交正常化へ動くこととなった。

中華人民共和国側もソ連の脅威への対応や経済発展推進の必要性があったことから、国交正常化に応じる構えがあり、両国ともに交渉を前向きに行う情勢は整っていたといえる。

佐藤政権後、田中角栄が1972年の首相就任後すぐに国交回復への意思を表明し、それを周恩来首相が歓迎したことから国交正常化への交渉は前向きに開始された。

しかし、交渉内容に問題があった。

まず、戦争の終結についである。

日華平和条約で戦争は終結したとする日本と、それを認めないとする中華人民共和国で見解が一致しなかったのである。

これについては、両国の妥協により戦争終結ではなく不正常な状態を終了するという文言を使い明言を避けることで解決した。

また、日華平和条約を有効とする立場の日本に対し、中華人民共和国は自らの政府を中国唯一とし、条約無効を主張したため問題となったが、これについては、日本が日華平和条約を一方的に終了させる宣言を行なうということで合意を得た。

このように、両国はお互いの利害関係を調整して日中共同声明(1972)を完成させ、その調印をもって国交正常化に至ったといえる。

長く成しえなかった国交正常化が実現したのには、国際情勢変化の影響が大きいが、交渉において、周恩来首相が細かな問題については追求しない態度を示したことや、田中首相が過去の日中関係に伴う中華人民共和国に及ぼした影響につき日本国として謝罪を表明するなど、積極的な歩み寄りを示した両国首相の人的要素も大きいのではないかと考える。
4
説明と考察3(国交正常化2・条約)
第3章     日中平和友好条約
先に述べた日中共同声明により国交正常化を果たした日中関係が、更にその関係を深め、日中平和友好条約の締結をするに至ったのはどのような理由からだろうか。

これは、日中共同声明の中には、もともと日中両国間の強固と発展のために平和友好条約の締結交渉を行なう旨の規定が入っていたということが最大の理由である。

では、もともと規定に入っていたのであれば、締結交渉はスムーズに進んだのだろうか。

この点については順調に進んだとはいえず、締結内容の確定までには当時の国際情勢が大きく影響している。

日中共同声明の調印後は、その内容に従って日中の貿易、海運、漁業等いくつかの協定が成立し、日中関係は順調に進展し始めたといえる。

これに続いて平和友好条約の締結へ向けて交渉が開始されたが、こちらについては問題が浮上した。ここで問題となったのはソ連との関係に関するものである。

中華人民共和国は「覇権条項」として反ソ体制に同意する条項の導入を求めてきたが、日本はソ連との関係悪化を望まなかったために交渉が難航した。

これについては、ソ連を対象としていると解釈されないように条項の表現を改めることで合意した。

その後、中国漁船の尖閣列島付近の領海侵犯事件(尖閣列島事件)の発生や、日韓が行なう大陸棚開発についての協定が中国の主権を侵すとの主張により、日中間が一時緊張したものの、条約交渉はこれらとは切り離して進められ、締結に至った(1978)

3章 日中平和友好条約
先に述べた日中共同声明により国交正常化を果たした日中関係が、更にその関係を深め、日中平和友好条約の締結をするに至ったのはどのような理由からだろうか。

これは、日中共同声明の中には、もともと日中両国間の強固と発展のために平和友好条約の締結交渉を行なう旨の規定が入っていたということが最大の理由である。

では、もともと規定に入っていたのであれば、締結交渉はスムーズに進んだのだろうか。

この点については順調に進んだとはいえず、締結内容の確定までには当時の国際情勢が大きく影響している。

日中共同声明の調印後、その内容に従って日中の貿易、海運、漁業等いくつかの協定が成立し、日中関係は順調に進展し始めたといえる。

これに続いて1974年に、三木武夫の首相就任直前から平和友好条約の締結へ向けて予備交渉が開始されたが、こちらについては問題が浮上した。

ここで問題となったのはソ連との関係に関するものである。

中華人民共和国は「覇権条項」として反ソ体制に同意する条項の導入を求めてきたが、三木内閣の方針として日・ソ関係悪化を避けようとしたために交渉が難航した。

更に1976年になると、それまで交渉を続けてきていた周恩来首相が死去し、華国鋒が新たに首相に就任したことを始めとして中華人民共和国内に大きな政治的な動きや混乱が生じたことも交渉の妨げとなった。

三木首相の後に就任した福田赳夫首相は、早期にこの平和条約を締結させるべく、新たに首相に就任した華国鋒首相にメッセージを伝える等、積極的に行動を起こした。

日本は当時不況の只中であり対中貿易を経済状態の回復の一助とすることも望ましいものであったし、中華人民共和国側にとっては文化革命による混乱の影響で遅れた科学技術水準を日本の技術導入により引き上げたいという目的もあったことから、交渉は前向きに進められた。

対立していた「覇権条項」についてはソ連を対象としていると解釈されないように条項の表現を改めることで合意した。

交渉途中には、中国漁船の尖閣列島付近の領海侵犯事件(尖閣列島事件)の発生や、日韓が行なう大陸棚開発についての協定が中国の主権を侵すとの主張により、日中間が一時緊張したものの、条約交渉はこれらの事情とは切り離して進められたことにより無事締結に至った(1978)

5
まとめと全体考察
終 章
以上、日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開を、当時の国際政治事情を考慮しながら述べてきた。

ここまで概観してきたように、日中間の国交に関する動きは、米国とソ連の日本と中華人民共和国に対する関係が非常に大きく関係していると考えられるが、注目すべきは、特に日本が米国及びソ連との関係を第一に考え、その下で日中関係をどうするかという観点で動いているということではないだろうか。

これはなぜだろうか。

思うに、当時の国力差が大きく関係しているのではないだろうか。

当時、日本は戦後ようやく国が復興し経済成長の只中にあったといえる。

当時の国力では米国やソ連といった大国に反意を示すことは国家の存亡にかかわり、大国の態度に追随せざるを得なかったのではないかと推察する。

日中国交正常化から日中友好条約の締結に米国やソ連との政治情勢が大きく関係しているのはこのような事情からであると考える。

大国の影響下であったとはいえ、日中国交正常化から日中友好条約の締結が与えた影響は少なくなく、両国の文化経済の発展に大きく寄与したのはもちろん、過去の戦争状態についての論争を終結させ、中華民国との政治関係についても日本にとっては比較的穏便に解決されたという点で大きな意義があると考える。

終 章
以上、日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開を、当時の国際政治事情を考慮しながら述べてきた。

ここまで概観してきたように、この間の日中関係は順調であったわけではなく、途中何度もその関係が緊張する場面が生じている。

日中国交正常化と日中平和友好条約の締結という大きな動きがあった時期にも、動き方しだいでは両国関係が簡単に悪化してしまう場面はあった。

それにもかかわらずこれらのことが成し遂げられたのは、国際情勢の影響もさることながら、その当時の両国首相の政治方針や人柄という人的要素も大きく影響しているのではないかと考える。

また、日中間の国交に関する動きは、米国とソ連の日本と中華人民共和国に対する関係が非常に大きく関係していると考えられるが、注目すべきは、特に日本が米国及びソ連との関係を第一に考え、その下で日中関係をどうするかという観点で動いているということではないだろうか。

これはなぜだろうか。

思うに、当時の国力差が大きく関係しているのではないだろうか。

当時、日本は戦後ようやく国が復興し経済成長の只中にあったといえる。

当時の国力では米国やソ連といった大国に反意を示すことは国家の存亡にかかわり、大国の態度に追随せざるを得なかったのではないかと推察する。

日中国交正常化から日中友好条約の締結に米国やソ連との政治情勢が大きく関係しているのはこのような事情からであると考える。

大国の影響下であったとはいえ、日中国交正常化から日中友好条約の締結が与えた影響は少なくなく、両国の文化経済の発展に大きく寄与したのはもちろん、過去の戦争状態についての論争を終結させ、中華民国との政治関係についても日本にとっては比較的穏便に解決されたという点で大きな意義があると考える。

6
参考文献
<参考文献>

  石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光 編「記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」岩波書店2003
  藤田宏郎 編「戦後日本の国際関係―解説と資料―」晃洋書房2004
  井上寿一 著「日本外交史講義」岩波書店2003
  五百旗頭真 編「戦後日本外交史(新版)」有斐閣2006


<参考文献>

  石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光 編「記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」岩波書店2003
  藤田宏郎 編「戦後日本の国際関係―解説と資料―」晃洋書房2004
  井上寿一 著「日本外交史講義」岩波書店2003
  五百旗頭真 編「戦後日本外交史(新版)」有斐閣2006
  堀越作治 著「戦後政治裏面史」岩波書店1998
  趙全勝 著/杜進・栃内精子 訳「日中関係と日本の政治」岩波書店1999
  毛里和子 著「日中関係 戦後から新時代へ」岩波書店2006









文章のみ(レポートをそのまま文章のみ掲載。ざっと読みたいという方に)※評価Bのみ 


序 章

日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる6年間は、1949年に成立した中華人民共和国と日本との友好関係を築く期間であったといえる。中華人民共和国と日本との関係は当時の政治情勢に大きく影響を受けているが、中でも米国とソ連の動きには多大な影響を受けているといえる。
以下では、日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開を、特に日中両国と米国及びソ連との関係を考慮しながら概観したい。


第1章 中華人民共和国の成立と日本

日中国交正常化以前には、なぜ日中間に国交がなかったのだろうか。日中国交正常化でいう「中」とは、中華人民共和国のことを指している。中華人民共和国は、1949年に成立した。それまで中国大陸を支配していた中華民国も台北に遷都はしたものの、依然政府として存在しており、中華人民共和国と中華民国の両政府ともに国際社会に対して中国を代表する政府であると主張した。これに対し、米国は中華民国側を認め、英国が中華人民共和国を認めたことで対立した。

この対立が原因で、第二次世界大戦における連合諸国と日本との間に平和条約を締結するために開かれたサンフランシスコ講和会議には、結局両政府とも招聘されなかった。したがって、日本は中国との講和条約を締結できず、国交を回復することができなかったのである。その後、米国は朝鮮戦争で悪化した中華人民共和国との関係から、日本に対して中華民国を国として認め国交を開くよう強いた。日本はこの要請に従い日華平和条約(1952)を結んだため、中華人民共和国政府は日本に対して敵意を示している。


第2章         日中国交正常化
先述のように、日本に対して敵意を持っていた中華人民共和国との関係が国交正常化に至ったのは、どのような経緯からだろうか。日中国交正常化とは、1972929日に田中角栄・周恩来両首相が署名した「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に基づき、日本と中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった出来事をいう。
最初の変化のきっかけとなったのは、1953年に共産党の権力者であったソ連のスターリンの死に始まる国際共産主義運動の転換と朝鮮休戦協定の調印による国際的な緊張の緩和である。周恩来首相はこれを機に日本との関係を改善方向へ転換し、日中両国民間で幅広く経済、文化等の交流を積み上げることにより日中関係を正常化へ導こうとする「積み上げ方式」を提案した。日本側も、鳩山一郎首相が、政治関係と経済関係は切り離し、両国間での経済・文化等の交流を深めるべきとして、この提案に応じたことにより、貿易が再開された。これより経済関係については一度進展したものの、岸伸介首相の代に台湾寄りの姿勢を示して中華民国との関係を深めたことから、中華人民共和国との関係は悪化した。このような状態の中で1957年に起きた長崎国旗事件は、岸内閣による中華人民共和国への挑発・侮辱であるとして政治問題となり、結果として再び中華人民共和国との関係断絶に至った。その後、池田勇人首相の代になると、池田内閣が政治的争点を避けて経済発展に力を注ぐ方針を示した。これに対し、中華人民共和国側もソ連・東欧との貿易減少のため他へ貿易相手を求める必要があったことや、岸内閣時代に行なった対日関係の処理に成果が少なかったことから対日態度が軟化し、1962年には「日中総合貿易に関する覚書」が調印され、日中貿易が再開された。しかし、1964年に就任した佐藤栄作首相が、米国や台湾、韓国との関係を深めたため再度冷却化している。
このような経緯がありながら日本との国交正常化に至ったのは、1971年に中華人民共和国に対して敵対していた米国が、現役大統領の北京訪問という形でその関係改善に踏み切ったことが関係している。佐藤内閣にとっては、中華人民共和国への対応については米国とは密接な関係にあると自負していただけに、米中関係の改善は全く突然の出来事としてとらえられ衝撃を受けたとされる。この情勢変化に、日本は再び中華人民共和国との国交正常化へ動くこととなった。中華人民共和国側もソ連の脅威への対応や経済発展推進の必要性があったことから、国交正常化に応じる構えがあり、両国ともに交渉を前向きに行う情勢は整っていたといえる。
佐藤政権後、田中角栄が1972年の首相就任後すぐに国交回復への意思を表明し、それを周恩来首相が歓迎したことから国交正常化への交渉は前向きに開始された。しかし、交渉内容に問題があった。まず、戦争の終結についである。日華平和条約で戦争は終結したとする日本と、それを認めないとする中華人民共和国で見解が一致しなかったのである。これについては、両国の妥協により戦争終結ではなく不正常な状態を終了するという文言を使い明言を避けることで解決した。また、日華平和条約を有効とする立場の日本に対し、中華人民共和国は自らの政府を中国唯一とし、条約無効を主張したため問題となったが、これについては、日本が日華平和条約を一方的に終了させる宣言を行なうということで合意を得た。
このように、両国はお互いの利害関係を調整して日中共同声明(1972)を完成させ、その調印をもって国交正常化に至ったといえる。長く成しえなかった国交正常化が実現したのには、国際情勢変化の影響が大きいが、交渉において、周恩来首相が細かな問題については追求しない態度を示したことや、田中首相が過去の日中関係に伴う中華人民共和国に及ぼした影響につき日本国として謝罪を表明するなど、積極的な歩み寄りを示した両国首相の人的要素も大きいのではないかと考える。

第3章     日中平和友好条約
先に述べた日中共同声明により国交正常化を果たした日中関係が、更にその関係を深め、日中平和友好条約の締結をするに至ったのはどのような理由からだろうか。
これは、日中共同声明の中には、もともと日中両国間の強固と発展のために平和友好条約の締結交渉を行なう旨の規定が入っていたということが最大の理由である。
では、もともと規定に入っていたのであれば、締結交渉はスムーズに進んだのだろうか。この点については順調に進んだとはいえず、締結内容の確定までには当時の国際情勢が大きく影響している。
日中共同声明の調印後、その内容に従って日中の貿易、海運、漁業等いくつかの協定が成立し、日中関係は順調に進展し始めたといえる。
これに続いて1974年に、三木武夫の首相就任直前から平和友好条約の締結へ向けて予備交渉が開始されたが、こちらについては問題が浮上した。ここで問題となったのはソ連との関係に関するものである。中華人民共和国は「覇権条項」として反ソ体制に同意する条項の導入を求めてきたが、三木内閣の方針として日・ソ関係悪化を避けようとしたために交渉が難航した。更に1976年になると、それまで交渉を続けてきていた周恩来首相が死去し、華国鋒が新たに首相に就任したことを始めとして中華人民共和国内に大きな政治的な動きや混乱が生じたことも交渉の妨げとなった。
三木首相の後に就任した福田赳夫首相は、早期にこの平和条約を締結させるべく、新たに首相に就任した華国鋒首相にメッセージを伝える等、積極的に行動を起こした。日本は当時不況の只中であり対中貿易を経済状態の回復の一助とすることも望ましいものであったし、中華人民共和国側にとっては文化革命による混乱の影響で遅れた科学技術水準を日本の技術導入により引き上げたいという目的もあったことから、交渉は前向きに進められた。対立していた「覇権条項」についてはソ連を対象としていると解釈されないように条項の表現を改めることで合意した。交渉途中には、中国漁船の尖閣列島付近の領海侵犯事件(尖閣列島事件)の発生や、日韓が行なう大陸棚開発についての協定が中国の主権を侵すとの主張により、日中間が一時緊張したものの、条約交渉はこれらの事情とは切り離して進められたことにより無事締結に至った(1978)
終 章
以上、日中国交正常化(1972)から日中平和友好条約の締結(1978)にいたる日中関係の展開を、当時の国際政治事情を考慮しながら述べてきた。
ここまで概観してきたように、この間の日中関係は順調であったわけではなく、途中何度もその関係が緊張する場面が生じている。日中国交正常化と日中平和友好条約の締結という大きな動きがあった時期にも、動き方しだいでは両国関係が簡単に悪化してしまう場面はあった。それにもかかわらずこれらのことが成し遂げられたのは、国際情勢の影響もさることながら、その当時の両国首相の政治方針や人柄という人的要素も大きく影響しているのではないかと考える。
また、日中間の国交に関する動きは、米国とソ連の日本と中華人民共和国に対する関係が非常に大きく関係していると考えられるが、注目すべきは、特に日本が米国及びソ連との関係を第一に考え、その下で日中関係をどうするかという観点で動いているということではないだろうか。これはなぜだろうか。思うに、当時の国力差が大きく関係しているのではないだろうか。
当時、日本は戦後ようやく国が復興し経済成長の只中にあったといえる。当時の国力では米国やソ連といった大国に反意を示すことは国家の存亡にかかわり、大国の態度に追随せざるを得なかったのではないかと推察する。日中国交正常化から日中友好条約の締結に米国やソ連との政治情勢が大きく関係しているのはこのような事情からであると考える。
大国の影響下であったとはいえ、日中国交正常化から日中友好条約の締結が与えた影響は少なくなく、両国の文化経済の発展に大きく寄与したのはもちろん、過去の戦争状態についての論争を終結させ、中華民国との政治関係についても日本にとっては比較的穏便に解決されたという点で大きな意義があると考える。


<参考文献>
  石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光 編「記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」岩波書店2003
  藤田宏郎 編「戦後日本の国際関係―解説と資料―」晃洋書房2004
  井上寿一 著「日本外交史講義」岩波書店2003
  五百旗頭真 編「戦後日本外交史(新版)」有斐閣2006
  堀越作治 著「戦後政治裏面史」岩波書店1998
  趙全勝 著/杜進・栃内精子 訳「日中関係と日本の政治」岩波書店1999
  毛里和子 著「日中関係 戦後から新時代へ」岩波書店2006