■レポート【日本政治史】






立憲政友会に関する課題です。比較的資料類が多く揃っている分野でしたので、レポートを書く際に助かりました。





どんな科目? (本科目について簡単にご紹介)


日本史研究の分野のひとつです。歴史の中で特に日本の政治について扱うものです。


課題情報  (課題の概略や成績など)


 

1

科目

 日本政治史

2

課題概略

 立憲政友会の歴史的な位置づけ

3

課題タイプ

 考察を加える

4

提出形式

 手書き(ワープロ不可)

5

評価

 

6

レポート構成

1     課題定義

2     流れ提示

3     定義の内容説明と考察

4     定義関係の追加記載と考察

5     まとめと結論

6     参考文献 

7

文字数制限

 4000

8

本文文字数

 3112

9

備考

分析 (文章をまとまり毎に表形式で整理)


1
課題定義

序章

立憲政友会は、1900年(明治33年)に、伊藤博文が自らの与党として、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党を中心に創立した。

日本で最初の政党政治を行なった政党であり一時期は強大な力を持ち政権を担っていたが、1932年(昭和7年)、五・一五事件で犬養毅が暗殺された頃から軍部に圧迫されて衰退し、1939年に2派への分裂を経て1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加し、大政翼賛会に合流したことにより消滅している。

2
 流れ提示

この立憲政友会は、近代日本政治史においてどのような位置づけをすることができるだろうか。

立憲政友会の創立時と、その存続期間中で最も重要な活動のあった時期のひとつと考えられる、原内閣時代を中心に以下に考察したい。

3
 定義の内容説明と考察

1章 立憲政友会の創立

まず、立憲政友会の創立について考察したい。

そもそも立憲政友会はなぜ創立されたのだろうか。

近代日本の始点といえる明治維新後、藩閥・官僚から成る政府は、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く、つまり、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという超然主義を採っており、最初は伊藤博文もこの主義を支持していた。

超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、地方官らを前にして行った演説において表明したものであるが、帝国議会が開かれると、「民党」と称された民権派の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。

更に黒田内閣による民党分裂工作と条約改正交渉の失敗、第1次山縣内閣による民党買収による予算案の通過等が却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発をかった。

また、帝国憲法は超然主義を前提に制定されたものではなかったために問題が生じた。特に問題となったのは、予算に関する規定である。

帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算とされる規定があり、その場合には、当時の日本にとって重要な課題あった殖産興業や富国強兵政策の新規予算が捻出できなくなるという事態が生じる可能性があった。

このため、政府側は予算を必要とする官庁や軍から責を問われ、民党に対して金銭を与える等の裏手段を使ってでも予算案を通過させざるを得なくなっていた。

このような状況に、超然主義の破綻を感じ、議会との対立を続けるのではなく、議会の中に天皇と国益を重んじる政党を作り、その政党による政治を行なう必要性を感じたことから伊藤博文自らが創立したのが立憲政友会である。

その時期依然として超然主義を重んじる貴族院最大会派の研究会が伊藤内閣を総辞職に追い込んだため、伊藤博文の目的は達成されなかったが、立憲政友会の誕生は、それまで強大であった藩閥政治勢力を後退させ、その後の政党による新たな政治活動を促す始点という位置づけができると考える。

4
 定義関係の追加記載と考察
2章 原敬と立憲政友会

では、立憲政友会の実際の活動からは近代日本史上どのような位置づけができるだろうか。

先に述べたように、立憲政友会の創立者である伊藤博文は立憲政友会の目的のひとつであった政党内閣の設立まで活動を行なうことができなかった。

これを実現させたのは、原敬である。

原敬は伊藤博文と井上馨の勧めで立憲政友会に入党した。

日露戦争が始まった1904年(明治37年)、桂太郎首相は政局の安定を図るため、政友会との提携を目的に原敬と交渉を行った。

1905年(明治38年)年、桂内閣は総辞職し、1906年(明治39年)に西園寺公望に組閣の大命が下ると、原は内務大臣として加わっている。

これ以降、桂と西園寺との間で政権授受が行われ、「桂園時代」と呼ばれる政治的安定期を迎えている。

この時期、原敬は山県有朋との関係調整の一方で、その基盤を切り崩して、立憲政友会の勢力を広げようとした。

大きな転機といえるのは、1914(大正3)の大正政変により辞任した西園寺公望の後任として第3代立憲政友会総裁に就任したことである。

その後、シベリア出兵に端を発した米騒動への対応不備による寺内内閣の辞職後、1918年(大正7年)に原内閣が成立した。

この内閣は、原敬が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が就任しており、日本初の本格的政党内閣となった。

原内閣の政策は、対外的には英米協調主義をとったこと、また、内政においては積極政策と統治機構内部への政党の影響力を強化したことが特徴として挙げられる。

具体的には、まず外交政策の転換し、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を行なうと同時に、英米との協調も図ろうとした。

また、寺内内閣の行なった中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策を組閣後早々に打ち切り、米国から提起されていた日本・米国・フランス・英国4ヶ国による新4国借款団への加入すること、英米協調の観点から決定している。

内政については、立憲政友会が掲げていた積極政策、つまり、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を進めた。

1919年(大正8年)には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制の導入と同時に、それまでの選挙人の資格要件を直接国税の納金が10円以上であったものを3円以上に大幅に引き下げ、一般国民の政治参加へ大きく前進したといえるものの、 一般国民の望んだ普通選挙法の施行には否定的であった。

なぜならば、普通選挙法を主張した憲政会は都市を基盤としていたが、立憲政友会は農村が基盤であったために、普通選挙が不利であると考えられたからである。

1920年(大正9)年に憲政会等から男子普通選挙制度の導入を求める選挙法改正案が提出されたが、原敬はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行っている。結局、この普通選挙法の成立に関しては、後に憲政会の加藤高明が実現した。

また、原内閣は、立憲政友会の支配力を強めるために、貴族院を分断させ、最大会派である「研究会」を与党化させるなど、反政党勢力の基盤を切り崩した。

しかし、一方で反政党勢力のトップである山県有朋達との衝突は避け、穏便な関係を築くための配慮も怠らず、強力な指導力を有した政治を行なった。

1921年(大正10年)に東京駅で刺殺されるという最後を遂げたが、原敬の行なった政党政治は、その後現在に至るまで、政党政治が続いていることから見ても、日本の政治に大きな影響を与えたことは明白である。

ここからは立憲政友会を日本政治のあり方を変えた存在のひとつと位置づけることができると考える。

5
まとめと結論
終章

以上、立憲政友会の創立についての考察と、その活動上で特に重要と考えられる原内閣時代の政治について述べてきた。

ここまで考察してきたように、立憲政友会が近代日本政治史上与えた影響は非常に大きいと考えられるが、特に注目すべきは、立憲政友会の創立前における日本政治の主役と、創立後、特に立憲政友会が日本政治に様々な影響を与えて消滅した後の政治活動の主役が違っていることではないだろうか。

立憲政友会が現れるまでの日本政治の主役は、明治維新により封建制度が廃止されてもなお、藩閥・官僚であった。

それが、立憲政友会による政党政治の出現により次第に開かれたものとなり、ついには一般国民の参加する政治へと変貌を遂げ、その流れが現代日本政治へとつながっている。

近代日本史上における立憲政友会という政党は、民主政治への転換に人々の意識改革を促した存在であり、それまでごく一部の者の手にあった政治を、国民参加型の政治へ変化させた始点であるという位置づけが可能であると考える。
6
参考文献
 <参考文献>
・ 北岡伸一 著「日本の近代5政党から軍部へ19241941」中央公論新社1999
・ 奥健太郎 著「昭和戦前期 立憲政友会の研究―党内派閥の分析を中心に」慶応義塾大学出版2004
・ 加藤文三 著「日本近現代史の発展 上」新日本出版社1994
・ 加藤文三 著「日本近現代史の発展 下」新日本出版社1994
・ 安岡昭男 編「近現代史用語辞典」新人物往来社1992



文章のみ (レポートをそのまま文章のみ掲載。ざっと読みたいという方に)


                   序章

立憲政友会は、1900年(明治33年)に、伊藤博文が自らの与党として、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党を中心に創立した。日本で最初の政党政治を行なった政党であり一時期は強大な力を持ち政権を担っていたが、1932年(昭和7年)、五・一五事件で犬養毅が暗殺された頃から軍部に圧迫されて衰退し、1939年に2派への分裂を経て1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加し、大政翼賛会に合流したことにより消滅している。
 この立憲政友会は、近代日本政治史においてどのような位置づけをすることができるだろうか。立憲政友会の創立時と、その存続期間中で最も重要な活動のあった時期のひとつと考えられる、原内閣時代を中心に以下に考察したい。


                第1章 立憲政友会の創立

まず、立憲政友会の創立について考察したい。そもそも立憲政友会はなぜ創立されたのだろうか。近代日本の始点といえる明治維新後、藩閥・官僚から成る政府は、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く、つまり、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという超然主義を採っており、最初は伊藤博文もこの主義を支持していた。超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、地方官らを前にして行った演説において表明したものであるが、帝国議会が開かれると、「民党」と称された民権派の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。更に黒田内閣による民党分裂工作と条約改正交渉の失敗、第1次山縣内閣による民党買収による予算案の通過等が却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発をかった。また、帝国憲法は超然主義を前提に制定されたものではなかったために問題が生じた。特に問題となったのは、予算に関する規定である。帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算とされる規定があり、その場合には、当時の日本にとって重要な課題あった殖産興業や富国強兵政策の新規予算が捻出できなくなるという事態が生じる可能性があった。このため、政府側は予算を必要とする官庁や軍から責を問われ、民党に対して金銭を与える等の裏手段を使ってでも予算案を通過させざるを得なくなっていた。このような状況に、超然主義の破綻を感じ、議会との対立を続けるのではなく、議会の中に天皇と国益を重んじる政党を作り、その政党による政治を行なう必要性を感じたことから伊藤博文自らが創立したのが立憲政友会である。その時期依然として超然主義を重んじる貴族院最大会派の研究会が伊藤内閣を総辞職に追い込んだため、伊藤博文の目的は達成されなかったが、立憲政友会の誕生は、それまで強大であった藩閥政治勢力を後退させ、その後の政党による新たな政治活動を促す始点という位置づけができると考える。

                 第2章 原敬と立憲政友会

では、立憲政友会の実際の活動からは近代日本史上どのような位置づけができるだろうか。先に述べたように、立憲政友会の創立者である伊藤博文は立憲政友会の目的のひとつであった政党内閣の設立まで活動を行なうことができなかった。これを実現させたのは、原敬である。原敬は伊藤博文と井上馨の勧めで立憲政友会に入党した。日露戦争が始まった1904年(明治37年)、桂太郎首相は政局の安定を図るため、政友会との提携を目的に原敬と交渉を行った。翌1905年(明治38年)年、桂内閣は総辞職し、1906年(明治39年)に西園寺公望に組閣の大命が下ると、原は内務大臣として加わっている。これ以降、桂と西園寺との間で政権授受が行われ、「桂園時代」と呼ばれる政治的安定期を迎えている。この時期、原敬は山県有朋との関係調整の一方で、その基盤を切り崩して、立憲政友会の勢力を広げようとした。大きな転機といえるのは、1914(大正3)の大正政変により辞任した西園寺公望の後任として第3代立憲政友会総裁に就任したことである。その後、シベリア出兵に端を発した米騒動への対応不備による寺内内閣の辞職後、1918年(大正7年)に原内閣が成立した。この内閣は、原敬が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が就任しており、日本初の本格的政党内閣となった。原内閣の政策は、対外的には英米協調主義をとったこと、また、内政においては積極政策と統治機構内部への政党の影響力を強化したことが特徴として挙げられる。
具体的には、まず外交政策の転換し、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を行なうと同時に、英米との協調も図ろうとした。また、寺内内閣の行なった中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策を組閣後早々に打ち切り、米国から提起されていた日本・米国・フランス・英国4ヶ国による新4国借款団への加入すること、英米協調の観点から決定している。
内政については、立憲政友会が掲げていた積極政策、つまり、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を進めた。1919年(大正8年)には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制の導入と同時に、それまでの選挙人の資格要件を直接国税の納金が10円以上であったものを3円以上に大幅に引き下げ、一般国民の政治参加へ大きく前進したといえるものの、 一般国民の望んだ普通選挙法の施行には否定的であった。なぜならば、普通選挙法を主張した憲政会は都市を基盤としていたが、立憲政友会は農村が基盤であったために、普通選挙が不利であると考えられたからである。1920年(大正9)年に憲政会等から男子普通選挙制度の導入を求める選挙法改正案が提出されたが、原敬はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行っている。結局、この普通選挙法の成立に関しては、後に憲政会の加藤高明が実現した。
また、原内閣は、立憲政友会の支配力を強めるために、貴族院を分断させ、最大会派である「研究会」を与党化させるなど、反政党勢力の基盤を切り崩した。しかし、一方で反政党勢力のトップである山県有朋達との衝突は避け、穏便な関係を築くための配慮も怠らず、強力な指導力を有した政治を行なった。1921年(大正10年)に東京駅で刺殺されるという最後を遂げたが、原敬の行なった政党政治は、その後現在に至るまで、政党政治が続いていることから見ても、日本の政治に大きな影響を与えたことは明白である。ここからは立憲政友会を日本政治のあり方を変えた存在のひとつと位置づけることができると考える。

                      終章

以上、立憲政友会の創立についての考察と、その活動上で特に重要と考えられる原内閣時代の政治について述べてきた。ここまで考察してきたように、立憲政友会が近代日本政治史上与えた影響は非常に大きいと考えられるが、特に注目すべきは、立憲政友会の創立前における日本政治の主役と、創立後、特に立憲政友会が日本政治に様々な影響を与えて消滅した後の政治活動の主役が違っていることではないだろうか。立憲政友会が現れるまでの日本政治の主役は、明治維新により封建制度が廃止されてもなお、藩閥・官僚であった。それが、立憲政友会による政党政治の出現により次第に開かれたものとなり、ついには一般国民の参加する政治へと変貌を遂げ、その流れが現代日本政治へとつながっている。
近代日本史上における立憲政友会という政党は、民主政治への転換に人々の意識改革を促した存在であり、それまでごく一部の者の手にあった政治を、国民参加型の政治へ変化させた始点であるという位置づけが可能であると考える。


<参考文献>
北岡伸一 著「日本の近代5政党から軍部へ1924~1941」中央公論新社1999年
奥健太郎 著「昭和戦前期 立憲政友会の研究―党内派閥の分析を中心に」慶応義塾大学出版2004年
加藤文三 著「日本近現代史の発展 上」新日本出版社1994年
加藤文三 著「日本近現代史の発展 下」新日本出版社1994年


安岡昭男 編「近現代史用語辞典」新人物往来社1992年