課題は臓器移植に関するものです。
スクーリングにも参加しましたが、命の尊厳等考えさせられることが数多くあった科目でした。通信のHPに現在の開講科目が公開されていたので確認してみたところ、今はない科目となっているようですね。とても残念です。
どんな科目?
課題情報
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科目 |
改定・医事法 |
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課題概略 |
臓器移植に関するものです。テーマに関する問題点が挙げられており、それに関する小問4つに答えつつ論述するよう指示がありました。課題文章は全200字程度。 |
3 |
課題タイプ |
論述しなさい |
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提出形式 |
手書き(ワープロ可) |
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評価 |
A |
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レポート構成 |
1 課題定義 2 流れ提示 3 小問1についての答 4 小問2についての答 5 小問3についての答 6 小問4についての答 7 まとめと考察 8 参考文献 |
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文字数制限 |
4000字 |
8 |
本文文字数 |
3840字 |
9 |
備考 |
・改善点として、文章校正の章立て化をご指摘いただいています。 ・レポート構成に関しては、課題文中にあった「課題について、1→4の小問に答えつつ論述せよ。」という指示に従ってそのまま順に記載した形です。 |
分析
1
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課題定義
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臓器移植数は、すなわちそれ以外の手段では助からない人の命をつないだ数ともいえ、わが国でも積極的に増やしていくべきであると考える。
現在、わが国の臓器移植数が先進諸外国と比較して極端に少ない最大の理由は、臓器移植や脳死に関する社会的な理解度の低さではないだろうか。
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2
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流れ提示
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以下に述べる脳死や臓器移植に関する基本事項や問題点についても、現在の日本では、関心を持って自ら働きかけることがなければ、普段の生活の中で意識されにくい状態にあるように感じられる。
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3
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小問1についての答
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1
脳死の判断基準は6要件ある。1つ目は深昏睡、2つ目は瞳孔(固定散大・左右4ミリ以上)、3つ目は脳幹反射の消失、4つ目は平坦脳波、5つ目は自発呼吸の消失(無呼吸テストによる確認)、6つ目はこれまでのべてきた5つの条件がすべて満たされた状態を一回目の判定とし、更に6時間後に2回目の判定時にも先の5つの条件を満たしていることで、以上をもって脳死と判定される。
ここでいう脳死とはどのような状態なのだろうか。
脳(中枢神経系)には、大脳、小脳、脳幹という部分がある。
脳幹は、呼吸、循環などの生命に直結する機能の中枢をなしている。脳幹の機能が失われると、生命維持に欠かせない呼吸が止まってしまう。
ところが、人工呼吸器が発明されたことで、自発呼吸が停止した人に対して人工呼吸器で呼吸を維持すれば、脳幹機能が失われていても呼吸と循環は一定期間維持していけるという事態が生まれた。
これが脳死である。
脳死はいわゆる植物状態と明確に区別される。
植物状態では大脳は機能を失っているかそれに近い状態になっているが、自発呼吸をつかさどる呼吸中枢のある脳幹部は完全に生きている。
植物状態では脳幹部が正常のため昏睡状態であっても栄養さえ補給すれば生きながらえる状態であり、自発呼吸可能である。
脳死者の場合は人工呼吸器なしでは生きられず多くが数日で心停止に至る。
全脳死説とは、全脳死をもって人の死とする考え方をいう。
全脳死とは大脳、小脳、脳幹を含む全脳体の活動が二度と回復することのない状態、つまり不可逆的な機能停止のことを指す。
日本では脳死を「脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能消失」としており全脳死説をとっている。
イギリスなどヨーロッパの一部の国では、脳幹の死をもって人の死とする脳幹死を受け入れているが、多くの先進諸外国では全脳死説をとっている。
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4
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小問2についての答
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2
脳死を認めず心臓移植を「違法性阻却論」によって容認するのは、人の死を心臓の停止によるとする心臓死説の立場で考えることから生じる。
心臓移植は、心臓死説上では生きている人からの臓器摘出となるため、その摘出が提供者を死に至らしめることになり、刑法上は殺人罪(第199条)となる。
これを人道主義的見地から、臓器提供を受けなければ助からない命を救うための緊急避難として違法性を阻却し無罪と考えるのが「違法性阻却論」である。
「違法性阻却論」による心臓移植は妥当だろうか。
この考え方には、同じ生きている生命でありながら、消え行こうとする命よりも救うことのできる命のほうが重いという、命の差別ともいえるものが根底に存在することになる。
また、生きた人から命を奪う行為に対し、行為を正当化するために法律の解釈を合わせてしまうのでは法律の存在意義にかかわるとはいえないだろうか。
更に、この考え方では、提供者の心臓死に直結する心臓移植そのものについては殺人罪とはしないと認めていること自体、提供者をすでに生者として扱っていないという見方ができると考える。
「違法性阻却論」を使うのは、事実上は脳死という概念を認めておきながら、言葉の上で古い概念枠内に無理に押し込んでおり妥当ではなく、脳死という概念を正式に認めるべきであると考える。
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5
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小問3についての答
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3
日本におけるドナー不足の原因は、まず、臓器提供をする際にドナー側の意思確認などの手続きが厳格かつ複雑であることが挙げられる。
特に脳死者からの臓器提供には、医師や臓器移植のコーディネーターに対しても様々な厳格な手続きを強いるほか、提供者側には適切な記載のされた書面による意思表示と遺族の同意とが揃うことといった条件が必要とされている。
実際には条件をすべて満たすことが難しく、提供意思があっても提供できなかったケースもでている。
つぎに、脳死や臓器移植に関する一般的な日本人の関心の低さと知識の乏しさが挙げられる。
わが国では臓器移植や脳死については教育やメディアなどの身近なところで触れる機会が少ない上、ドナーを増やすための一般社会への十分な情報提供も不足している。
このため、よほどの関心を持って自分から働きかけなければ正しく且つ十分な知識を持ちにくい。
脳死や臓器移植に関係の深いドナーに関する正しい情報についても普及しにくいといえる。
また、日本人の死生観も原因のひとつではないだろうか。
欧米人は心と体は別のものであるという考え方が主流であるが、日本人は体と心は一体のものであるという考え方が多く、死とは一般に心も体も死んだ状態、つまり体が冷たくなりすべての機能が停止した状態だという感じ方がより強い。
それゆえ、科学的な死である脳死は、見た目には体は温かく脈を打っているためにその死を認めにくい人が多いことも、ドナー増加への壁になっていると考える。
更に、臓器移植の関係者をつなぐコーディネーター的な存在や情報ネットワークが十分に機能しているとはいいがたく、ドナーから患者への橋渡しが難しくなっていることも問題である。
ドナーを増やすためには、まず臓器提供の意思確認をもう少し緩やかにすることが必要であると考える。
現行法の状態では、たとえ提供の意思があってもその意思が生かされにくい。
意思確認は書面のよるものに限らず口頭でも可能とし、ドナー・カードの記載不備についても意思が読み取れればよいとすることが必要ではないだろうか。
また、あらかじめ国民一人ひとりに、「答えたくない」といった回答も含めて、臓器提供についてすべての人が、成人したら必ず一度は意思確認をしておくという制度を作り、必要になれば医療機関へ情報提供ができるようにするといった方法も有効ではないかと考える。
この方法は、個人が真剣に臓器移植について考えることにもなるであろうし、潜在的なドナー発掘にもつながるのではないだろうか。
併せて、コーディネーターの積極的な養成や医療機関との組織的連携を深めていく必要があると考えている。
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6
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小問4についての答
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4
わが国では現在、脳死移植に対する理解も環境も不十分である上、脳死ドナーそのものがあまりに不足しているため、これを補う方法として生体間移植が多く行なわれている。
この移植により脳死ドナーを待っていては助からなかったはずの多くの患者の命が救われている。
しかしながら、生体間移植はよい面ばかりではない。生体間移植のドナーはほとんどが健康な状態であるため、ドナーが既に死者である脳死移植に比べると、特にドナーに対して多大なリスクを伴うという大きなデメリットがある。
生体間移植は脳死移植に比べ、リスクを負う者が増えることから本来すべきではないと考える。
先進諸外国では脳死移植が主であるのに対し、わが国では、なぜこのよう大きなデメリットがある生体間移植が多いのだろうか。
理由は、先に述べたことだけではない。日本人の親族関係も影響していると考える。
もともと日本人の親族関係はウェットであり、親族のために身を呈するといったことが美談となりやすい傾向がある。
このため、現在のようにほとんどが生体間移植ばかりという状況下では、それが当たり前であるという感覚になり、実際には選択の余地はなく、生体間移植のドナーを親族がやらざるを得ないという状態を引き起こしかけているのではないだろうか。
このままでは、ますます脳死移植の普及が難しくなるのではないかと考える。
わが国で脳死移植を主流にするには、法による規制が必要であると考える。
なぜなら、先に述べてきたような日本人の気質を考えると、公の力による抑止がなければなかなか状態が変わりにくいと考えるからである。
法により、脳死移植を原則として生体間移植を特例にする規制をかけて脳死移植を推進していくことにより状態を変えていくことができるのではないかと考える。
しかしながら、現在のようなドナー不足のままで急にそのような規制をかけることは患者が命をつなぐ希望を大きく減らしてしまうことにもなる。
したがって、まずは脳死ドナー数を増加させることが重要である。法規制はその上で行なうべきであると考える。
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7
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まとめと考察
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これまで述べてきたような、脳死という概念も臓器移植も、医学の発達によりできた歴史上では比較的新しいものであり、これらを認めることは人の命の概念を変える。
しかし、時代変化や人間社会の進歩とともに様々な概念もまた変化を遂げるのは当然のことであり、柔軟に対応していく必要があるのではないだろうか。
これらは個人が積極的に対応していくことが重要であると考える。しかしながら、高度情報化した現代社会では情報が氾濫し、個人では正しい情報や必要な知識がかえって得にくい一面もある。
それゆえ、個人努力を基本としながらも、教育機関やメディアなど公の機関からも正確な情報や知識の普及に積極的な働きかけが必要ではないだろうか。
それが、わが国の臓器移植の増加はもとより、よりグローバルな視点で新たな課題や解決方法をも生み出していくことにもつながると考えている。
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8
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参考文献
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〈参考文献〉
・
梅原猛〔編〕「『脳死』と臓器移植」朝日新聞社2000年
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林真理「操作される生命 科学的言説の政治学」NTT出版2002年
・
中島みち「脳死と臓器移植法」文藝春秋2000年
・
篠原睦治「脳死・臓器移植、何が問題か『死ぬ権利と生命の価値』論を軸に」現代書館2001年
・
須藤正親 池田良彦 高月義照 著「なぜ日本では臓器移植がむずかしいのか-経済・法律・倫理の側面から」東海大学出版会1999年
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文章のみ
臓器移植数は、すなわちそれ以外の手段では助からない人の命をつないだ数ともいえ、わが国でも積極的に増やしていくべきであると考える。現在、わが国の臓器移植数が先進諸外国と比較して極端に少ない最大の理由は、臓器移植や脳死に関する社会的な理解度の低さではないだろうか。以下に述べる脳死や臓器移植に関する基本事項や問題点についても、現在の日本では、関心を持って自ら働きかけることがなければ、普段の生活の中で意識されにくい状態にあるように感じられる。
脳死の判断基準は6要件ある。1つ目は深昏睡、2つ目は瞳孔(固定散大・左右4ミリ以上)、3つ目は脳幹反射の消失、4つ目は平坦脳波、5つ目は自発呼吸の消失(無呼吸テストによる確認)、6つ目はこれまでのべてきた5つの条件がすべて満たされた状態を一回目の判定とし、更に6時間後に2回目の判定時にも先の5つの条件を満たしていることで、以上をもって脳死と判定される。
脳死を認めず心臓移植を「違法性阻却論」によって容認するのは、人の死を心臓の停止によるとする心臓死説の立場で考えることから生じる。心臓移植は、心臓死説上では生きている人からの臓器摘出となるため、その摘出が提供者を死に至らしめることになり、刑法上は殺人罪(第199条)となる。これを人道主義的見地から、臓器提供を受けなければ助からない命を救うための緊急避難として違法性を阻却し無罪と考えるのが「違法性阻却論」である。「違法性阻却論」による心臓移植は妥当だろうか。この考え方には、同じ生きている生命でありながら、消え行こうとする命よりも救うことのできる命のほうが重いという、命の差別ともいえるものが根底に存在することになる。また、生きた人から命を奪う行為に対し、行為を正当化するために法律の解釈を合わせてしまうのでは法律の存在意義にかかわるとはいえないだろうか。更に、この考え方では、提供者の心臓死に直結する心臓移植そのものについては殺人罪とはしないと認めていること自体、提供者をすでに生者として扱っていないという見方ができると考える。「違法性阻却論」を使うのは、事実上は脳死という概念を認めておきながら、言葉の上で古い概念枠内に無理に押し込んでおり妥当ではなく、脳死という概念を正式に認めるべきであると考える。
日本におけるドナー不足の原因は、まず、臓器提供をする際にドナー側の意思確認などの手続きが厳格かつ複雑であることが挙げられる。特に脳死者からの臓器提供には、医師や臓器移植のコーディネーターに対しても様々な厳格な手続きを強いるほか、提供者側には適切な記載のされた書面による意思表示と遺族の同意とが揃うことといった条件が必要とされている。実際には条件をすべて満たすことが難しく、提供意思があっても提供できなかったケースもでている。つぎに、脳死や臓器移植に関する一般的な日本人の関心の低さと知識の乏しさが挙げられる。わが国では臓器移植や脳死については教育やメディアなどの身近なところで触れる機会が少ない上、ドナーを増やすための一般社会への十分な情報提供も不足している。このため、よほどの関心を持って自分から働きかけなければ正しく且つ十分な知識を持ちにくい。脳死や臓器移植に関係の深いドナーに関する正しい情報についても普及しにくいといえる。また、日本人の死生観も原因のひとつではないだろうか。欧米人は心と体は別のものであるという考え方が主流であるが、日本人は体と心は一体のものであるという考え方が多く、死とは一般に心も体も死んだ状態、つまり体が冷たくなりすべての機能が停止した状態だという感じ方がより強い。それゆえ、科学的な死である脳死は、見た目には体は温かく脈を打っているためにその死を認めにくい人が多いことも、ドナー増加への壁になっていると考える。更に、臓器移植の関係者をつなぐコーディネーター的な存在や情報ネットワークが十分に機能しているとはいいがたく、ドナーから患者への橋渡しが難しくなっていることも問題である。
わが国では現在、脳死移植に対する理解も環境も不十分である上、脳死ドナーそのものがあまりに不足しているため、これを補う方法として生体間移植が多く行なわれている。この移植により脳死ドナーを待っていては助からなかったはずの多くの患者の命が救われている。しかしながら、生体間移植はよい面ばかりではない。生体間移植のドナーはほとんどが健康な状態であるため、ドナーが既に死者である脳死移植に比べると、特にドナーに対して多大なリスクを伴うという大きなデメリットがある。生体間移植は脳死移植に比べ、リスクを負う者が増えることから本来すべきではないと考える。先進諸外国では脳死移植が主であるのに対し、わが国では、なぜこのよう大きなデメリットがある生体間移植が多いのだろうか。理由は、先に述べたことだけではない。日本人の親族関係も影響していると考える。もともと日本人の親族関係はウェットであり、親族のために身を呈するといったことが美談となりやすい傾向がある。このため、現在のようにほとんどが生体間移植ばかりという状況下では、それが当たり前であるという感覚になり、実際には選択の余地はなく、生体間移植のドナーを親族がやらざるを得ないという状態を引き起こしかけているのではないだろうか。このままでは、ますます脳死移植の普及が難しくなるのではないかと考える。