■レポート【哲学】




これって答えはあるの?と思った課題でしたが、調べてみると解答的な内容として一般的な理論が存在しているものでしたので、なんとか書けました。奥深い学問です。





どんな科目?(本科目について簡単にご紹介)


  知の探求・・・などいわれています。
  ものごとの「本質」をとらえようとする学問かなというイメージです。

  テキストも面白かったのですが、参考文献にも挙げている野矢茂樹「哲学の謎」講談社現代新書1996年』は、
  例えば、「生物が絶滅して、見るものがいなくなったとしても、夕焼けは色をもつのか?」ここに見えているコーヒーカップは、コーヒーカップそのものではなくて自分が見た自分の意識に映したコーヒーカップの姿。ならば、実在のコーヒーカップはどこに?」 といったような内容など、哲学の考え方が会話形式で初心者にも読みやすく書かれており、とても面白い本でした。
  おすすめです!


課題情報(課題の概略や成績など)

1

科目

哲学

2

課題概略

自然の中における心に関すること

3

課題タイプ

論じよ

4

提出形式

ワープロ

5

評価

6

レポート構成

課題定義

問い提起

問いへの答えのための展開1(自然について)

問いへの答えのための展開2(心ついて)

問いへの答えのための展開3(展開12の関係について)

問いへの答え(考察)

まとめ

参考文献

7

文字数制限

4000

8

本文文字数

2583

9

備考

・独自見解に欠ける旨のご指摘をいただいています。

3つの課題から1つを選択して提出するものでした。 
・改めて読んでみると、書き始めの部分(12)からあまり流れがよくない印象です。上記のレポート構成欄を作成する際もどう分類したらいいのか迷いました。





分析(文章をまとまり毎に表形式で整理)


1
課題定義
一般に人は心と身体をあわせたものを自分として認識している。

心の器である身体は外から力が加われば怪我をし、加齢により老化をするといった実体として自然の法則に従い存在している。

しかし、心は目に見えるものではなく実体を持たず、ある何かに対しての表象や信念であるという特徴を持っている。

2
問い提起
それでは心は自然法則の適用範囲を超えたところにあり、自然のなかにはないということなのだろうか。

いったい心というものは自然のなかでどのような位置づけにあるのだろうか。
3
問いへの答えのための展開1(自然について)
まず、自然というものはどうとらえられてきたものだろうか。

これについてはアリストテレスが自然に法則を見出し説明しようとして示した考え方が、長い間人々に大きな影響を与えてきた。

アリストテレスは本質を対象の外ではなく、個物の中にあると考えた。

また、存在するものの変化の説明に可能態と現実態という区別を考え、その間の変化を自然の形相因、質料因、機動因、目的因という四つの原因よるとしている。

この考え方はその後それぞれがニュートンの古典力学やダーウィンの進化論など別の理論の基礎となり、それぞれ革命といわれるような大胆な自然観を確立していった。

いずれも自然の基本的なしくみ(自然法則)を明らかにすることにより、その法則を使って自然現象を説明するということについては共通している。


4
問いへの答えのための展開2(心ついて)
心の概念についてはいくつもの考え方が存在しているが、大きくは二つの考え方に分かれている。

心が実体かそうでないかというとらえ方の違いでいである。 

デカルトは、心は実体であると定義している。

彼が主張した心身二元論は「心」は「思考」、「もの」が「延長」という性質をもつ実体であり二つは根本的に異なっており、それらの間には相互作用があるというものである。

一般に気持ちが落ち込むと身体も活動力が低下し、身体が病気になれば心も沈みがちになるといった心と身体の関係はよく知られており、デカルトの主張は、現在でも私たちの日常生活に常識として根付いているといえる。

また、デカルトの考えでは、心は物理的なものではないので外側から見ても理解できないということになる。

例えば、ある人がりんごを見ているのをそばで見ていたとしても、その人がりんごをきれいだと思っているのか、食べたいと思っているのかは外から見ているだけではわからないといったことである。

このような出来事は私たちが日常的に経験することであり、それほどデカルトの主張に疑いを持つ余地がない。

しかし、デカルトのいう、心は実体だという主張に関しては反対が後の世代に多く主張されている。

心はものと根本的に異なる実体というわけではなく、外側から眺め見ても理解できるものであるという主張である。

つまり、心的な性質は物理的な性質によって決められるという考え方である。

ここに二人の人がいて二人の脳の状態が同じなら心的状態も同じであるはずだということである。

この考えに基づくものとしては心的性質が脳の性質と同じだとする同一説や、論理的な行動主義などが代表的である。 

5
問いへの答えのための展開3(展開12の関係について)
次に、心は自然のなかにあるのかということについて考えたい。

アリストテレスの定義を始めとして自然に関する考え方というのは、自然法則の解明に関する考え方ともいえる。

そのため、この法則のなかに心が含まれるのかということが問題となる。

デカルトの主張は身体と心は互いに独立して存在できる実体であるとしており、導きだされるのは自然と心は別のものということである。

しかし、これは本当だろうか。

例えば、ここにある人がいるとする。この人は今、自分のことについてさまざまなことを考えている。

だが、突然何らかの理由によって死んでしまったとしよう。

この現象で心と身体の関係はどうなったのだろうか。

この人が物事を考えていたのは心のなかである。死を迎えたとき、その対象となったのは身体である。

もし、身体と心が互いに独立する実体であるというのであれば、死によっては影響を受けないことになる。

しかし、現実には身体の死による活動停止により心もまた活動を停止する。

心の器である身体は心を考える際に身体とは切り離して考えることはできない。

ここで身体について考えてみたい。

身体は先に述べたように自然法則に従う存在、言い換えれば自然のなかにある存在である。

心と身体が死という現象に対し、活動停止という共通の法則に従ったのであれば心と体は同じ自然法則のなかにある、つまり心は自然のなかにあるということができる。

6
問いへの答え(考察)

では自然のなかの心の位置づけはどうなっているのだろうか。

私たちの周りには、ものの性質や状態など自然的なものにあふれている。

自然の法則の通用する多くの分野で自然科学として法則の解明が進みさまざまな自然的なものに関して理論体系ができている。

心については、目に見えるものではないために自然法則との関係が認識しにくい。

しかし、こういった自然的でない概念を自然的なものに還元する「自然化」という試みが自然主義者のなかで行われている。

自然主義については何を意味しているのかということについて統一見解はないが、デカルトの二元論の否定については自然主義者の多数が認めている。

自然主義では科学理論について、実在世界の理論であるとして重要視されている。

心に関しても「自然化」がすすんでおり、そこから心の科学ともいえる認知科学という情報や知識を対象とした自然や人工の認知の過程を研究する新しい分野も生み出されている。

そこでは人工知能と人間の心というものの境界線がどこにあるのかといった研究や、人間と機械である人工知能に関する理論づけなどこれまでは別の分野として扱われていたものを融合する試みも行われている。

科学の発展が進むに従い更にさまざまな分野の融合が行われていく可能性も高い。

自然のなかにおける心の位置づけは、例えるなら、自然という世界の森の中に生い茂るたくさんの木々の中の一本の哲学という大きな木の幹の部分であり、今後さまざまな科学分野という枝を大きく伸ばしていく存在であるのではないだろうか。

7
まとめ
心に関してはさまざまな議論がなされており、統一した見解にはいまだ到達していない。

しかし、心が自然のなかにあり実体を持たずとも人間の存在そのものに大きな謎とさまざまな課題を投げかける一方、科学分野の発展を促す存在であることは間違いない。

8
参考文献
<参考文献>
l  野矢茂樹「哲学の謎」講談社現代新書1996
l  戸田山和久「知識の哲学」産業図書2002
l  竹尾治一郎「分析哲学入門」世界思想社1999





文章のみ(レポートをそのまま文章のみ掲載。ざっと読みたいという方に)


一般に人は心と身体をあわせたものを自分として認識している。心の器である身体は外から力が加われば怪我をし、加齢により老化をするといった実体として自然の法則に従い存在している。しかし、心は目に見えるものではなく実体を持たず、ある何かに対しての表象や信念であるという特徴を持っている。

それでは心は自然法則の適用範囲を超えたところにあり、自然のなかにはないということなのだろうか。いったい心というものは自然のなかでどのような位置づけにあるのだろうか。

まず、自然というものはどうとらえられてきたものだろうか。これについてはアリストテレスが自然に法則を見出し説明しようとして示した考え方が、長い間人々に大きな影響を与えてきた。アリストテレスは本質を対象の外ではなく、個物の中にあると考えた。また、存在するものの変化の説明に可能態と現実態という区別を考え、その間の変化を自然の形相因、質料因、機動因、目的因という四つの原因よるとしている。この考え方はその後それぞれがニュートンの古典力学やダーウィンの進化論など別の理論の基礎となり、それぞれ革命といわれるような大胆な自然観を確立していった。いずれも自然の基本的なしくみ(自然法則)を明らかにすることにより、その法則を使って自然現象を説明するということについては共通している。

心の概念についてはいくつもの考え方が存在しているが、大きくは二つの考え方に分かれている。心が実体かそうでないかというとらえ方の違いでいである。 

デカルトは、心は実体であると定義している。 彼が主張した心身二元論は「心」は「思考」、「もの」が「延長」という性質をもつ実体であり二つは根本的に異なっており、それらの間には相互作用があるというものである。一般に気持ちが落ち込むと身体も活動力が低下し、身体が病気になれば心も沈みがちになるといった心と身体の関係はよく知られており、デカルトの主張は、現在でも私たちの日常生活に常識として根付いているといえる。また、デカルトの考えでは、心は物理的なものではないので外側から見ても理解できないということになる。例えば、ある人がりんごを見ているのをそばで見ていたとしても、その人がりんごをきれいだと思っているのか、食べたいと思っているのかは外から見ているだけではわからないといったことである。このような出来事は私たちが日常的に経験することであり、それほどデカルトの主張に疑いを持つ余地がない。
しかし、デカルトのいう、心は実体だという主張に関しては反対が後の世代に多く主張されている。心はものと根本的に異なる実体というわけではなく、外側から眺め見ても理解できるものであるという主張である。つまり、心的な性質は物理的な性質によって決められるという考え方である。ここに二人の人がいて二人の脳の状態が同じなら心的状態も同じであるはずだということである。この考えに基づくものとしては心的性質が脳の性質と同じだとする同一説や、論理的な行動主義などが代表的である。 

次に、心は自然のなかにあるのかということについて考えたい。アリストテレスの定義を始めとして自然に関する考え方というのは、自然法則の解明に関する考え方ともいえる。そのため、この法則のなかに心が含まれるのかということが問題となる。デカルトの主張は身体と心は互いに独立して存在できる実体であるとしており、導きだされるのは自然と心は別のものということである。
しかし、これは本当だろうか。例えば、ここにある人がいるとする。この人は今、自分のことについてさまざまなことを考えている。だが、突然何らかの理由によって死んでしまったとしよう。この現象で心と身体の関係はどうなったのだろうか。この人が物事を考えていたのは心のなかである。死を迎えたとき、その対象となったのは身体である。もし、身体と心が互いに独立する実体であるというのであれば、死によっては影響を受けないことになる。しかし、現実には身体の死による活動停止により心もまた活動を停止する。心の器である身体は心を考える際に身体とは切り離して考えることはできない。
ここで身体について考えてみたい。身体は先に述べたように自然法則に従う存在、言い換えれば自然のなかにある存在である。心と身体が死という現象に対し、活動停止という共通の法則に従ったのであれば心と体は同じ自然法則のなかにある、つまり心は自然のなかにあるということができる。

 では自然のなかの心の位置づけはどうなっているのだろうか。
私たちの周りには、ものの性質や状態など自然的なものにあふれている。自然の法則の通用する多くの分野で自然科学として法則の解明が進みさまざまな自然的なものに関して理論体系ができている。心については、目に見えるものではないために自然法則との関係が認識しにくい。しかし、こういった自然的でない概念を自然的なものに還元する「自然化」という試みが自然主義者のなかで行われている。自然主義については何を意味しているのかということについて統一見解はないが、デカルトの二元論の否定については自然主義者の多数が認めている。自然主義では科学理論について、実在世界の理論であるとして重要視されている。心に関しても「自然化」がすすんでおり、そこから心の科学ともいえる認知科学という情報や知識を対象とした自然や人工の認知の過程を研究する新しい分野も生み出されている。そこでは人工知能と人間の心というものの境界線がどこにあるのかといった研究や、人間と機械である人工知能に関する理論づけなどこれまでは別の分野として扱われていたものを融合する試みも行われている。科学の発展が進むに従い更にさまざまな分野の融合が行われていく可能性も高い。
自然のなかにおける心の位置づけは、例えるなら、自然という世界の森の中に生い茂るたくさんの木々の中の一本の哲学という大きな木の幹の部分であり、今後さまざまな科学分野という枝を大きく伸ばしていく存在であるのではないだろうか。

心に関してはさまざまな議論がなされており、統一した見解にはいまだ到達していない。しかし、心が自然のなかにあり実体を持たずとも人間の存在そのものに大きな謎とさまざまな課題を投げかける一方、科学分野の発展を促す存在であることは間違いない。


<参考文献>
l  野矢茂樹「哲学の謎」講談社現代新書1996
l  戸田山和久「知識の哲学」産業図書2002
l  竹尾治一郎「分析哲学入門」世界思想社1999